DRYこと七尾茂大(ドラムス)、HEAVYこと秋本武士(ベース)。かつて日本最高峰のリズム・コンビとして世界的な活動を展開した2人は、2001年に秋本がDRY&HEAVYを脱退して以降(事実上、リズム・コンビとしては解散)、各々の道を歩み続けてきた。当然のことながらDRY&HEAVYのファンは素晴らしいレゲエ・トラックを量産してきた2人の別離を悲しんだが、同時に、彼らが二度と同じステージに立つことがないことも覚悟していたはずだ。

 だが、2010年。リズム・コンビとしてのDRY&HEAVYがまさかの再結成を果たし、シークレットでの出演も含めて2回のライヴを披露。KILLER-BONG(ヴォーカル&MPC)とCutsign(ギター)を招いて壮絶な音楽世界を描き出した。そして、BLACK SMOKERから12インチ『DRY&HEAVY/ONE SHOT ONE KILL』を限定リリース──。

 ここではDRY&HEAVYを再始動させた秋本“HEAVY”武士のロング・インタヴューを決行。彼が人生で初めて結成したレゲエ・バンド、VITAL CONNECTIONの話、さらにはレゲエとの出会いなどレアなエピソード満載でお送りしよう。




──VITAL CONNECTIONは何年に結成されたんですか?

「91年だね。15、6のときに初めて(ボブ・マーリー&ザ・)ウェイラーズを聴いて、もう〈レゲエしかない〉と思ったわけ。〈こんな凄いものが世の中にあるんだ〉っていう驚きがあって。人間のあらゆる表現手段のなかでも究極に研ぎ澄まされた表現だと思ったし、一万の言葉を一言で表現してしまうようなね。そこからレゲエにハマっていったんだ」


──ウェイラーズとの出会いが衝撃的だったわけですね。

「そう。ボブ・マーリー以上に(ウェイラーズのリズム隊である)バレット兄弟が格好いいと思ったし、レゲエを表現してると思った。ベースを手にする前から〈この音楽は自分のためにある〉と直感で感じて、一生かけてもレゲエのベースをやってみたいと思うようになって。それで18ぐらいからベースを弾き始めた。(アストン“ファミリーマン”)バレットやロビー(・シェイクスピア)の音源を1音1音コピーしてね。彼らがハズしてるところも全部。俺は18からベースを弾き始めたから、レゲエ・ベーシストとしては18年のロスがあると思ってたし、それを取り返すために必死にやった。時間が惜しかったから高校も辞めちゃって、バイトのとき以外は延々とベースを弾く生活。練習することで、日本人である自分の血にジャマイカとアフリカの血を入れていくというかね。そこまでしても手に入れたいと思うほど憧れた、強烈なグルーヴだったんだ」


──レゲエ以前に音楽は聴いてたんですか?

「ニューウェイヴとかパンクは聴いてたし、ヒットチャートものは普通に聴こえてきた。クラッシュやポリス、PILなんかを通して方法論としてのレゲエやダブには触れていたんだけど、いざ本物が目の前に現れたときに〈これなんだ〉、と。(ボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズの)“Lively Up Yourself”がすべての始まりだった。歌詞の意味は分からなかったけど、何かワクワクするような、凄いエネルギーを感じて〈このベースを弾きたい〉と思った。1曲あげろと言われたら、自分にとっては今でもあの曲がレゲエのすべて。ボブ・マーリーの歌だけじゃなく、ドラムとベースが、レゲエの持つ生命力すべてを表現してると思う。初めてボブ・マーリーを聴いたとき、それまで自分が聴いてきた音楽のすべてが偽物だったのかと思っちゃったぐらい。何の現実も知らない15、6のガキには、それぐらいの衝撃だった」


──18歳でベースを弾き始めて……。

「3、4年は徹底的に練習をして、そろそろ勝負をしてみようと。その頃は今みたいにインターネットなんかもまだない時代だったから、メンバーを探すには音楽雑誌が一番大きな媒体だったんだ。〈レゲエ・ベーシスト募集〉っていう告知を見つけてはいくつもセッションしてみたんだけど、もう全然ダメで。ストーンズの流れからレゲエを聴き始めたような人か、胡散くせーヒッピーみたいなのばっかりっだったから。ろくに練習もしねえで〈JAH〉だの〈ヤーマン〉〈ONE LOVE〉とかさ。テメーに言われたかねえって(笑)。〈これはもうダメだ、自分で(メンバーを)集めるしかない〉と意識を変えて、そのとき日本で本気でレゲエをやろうとしてるヤツ全員の目に触れてやろうと思って、2年ぐらい毎月どこかの雑誌に必ず俺のメンバー募集が載るように(編集部に)手紙を書き続けた。いろんなリアクションがあったんだけど、なかには不幸の手紙が来たこともあったよ (笑)」

「それでいろんな人とセッションし続けたんだけど、やっぱり思うようなメンバーが集まらなくて。〈日本ではやるだけのことはやったから、もうジャマイカに行くしかないか〉と思ってね、実際に準備も始めて。そんな時にスライ&ロビーが日本に来たことがあって、俺も見に行ったわけ。ライヴの後の打ち上げの会場に忍び込んで、ロビーがいたから話しかけたんだよ、〈あなたは俺の世界一のヒーローで、あなたのミスタッチも全部コピーしてるんです〉ぐらいまで言って(笑)。〈近いうちに、ベースを持ってジャマイカに行きます〉って興奮気味に話したら、〈ジャマイカに着いたら、ここに来い〉って住所と電話番号を渡してくれてね。それでジャマイカに行くことを決めたんだ。でも、そのすぐあとに七尾君と力武(啓一/ギター)さんから応募が来て。それで一緒に音を出してみたら……もう何十年も一緒に演奏してきたみたいな感じなんだよ。何も決めずにセッションしたのに、お互いの出したい音がすぐに分かる」


──じゃあ、VITAL CONNECTIONは秋本さん、七尾さん、力武さんの3人でスタートしたわけですね。

「そう。そのあと古畑さん(隆男/ギター。後のREBEL FAMIILIA、THE HEAVYMANNERSマネージャー)が加入して。そうやってVITAL CONNECTIONを始めたんだけど、七尾君が他にもバンドをやってるっていう話は聞いてたわけ。それがAUDIO ACTIVEの前身のバンド。で、七尾君が〈そっちにヴォーカルとキーボードがいるから、VITAL CONNECTIONでゲスト的にやらせてくれないか〉って言い出して。当時、東京でレゲエのミュージシャンが活動していた代表的なハコが代々木のCHOCOLATE CITYで、V.I.PとかCHIEKO BEAUTYとかがやっててさ、俺たちもそこのオーディションを受けた。VITAL CONNECTIONは一発で受かったんだけど、AUDIO ACTIVEの前身バンドは落ちて、みたいなね。青春の思い出だよ(笑)……そうこうするうちにVITAL CONNECTIONが話題になってきて」


──七尾さんとの2人で〈DRY&HEAVY〉と名乗り出したのはVITAL CONNECTION時代からなんですよね?

「そうだね。練習のあと2人でよく朝まで飲んで語り合ってたんだ。〈いつかスライ&ロビーを超えよう。レゲエの歴史に残るような、オリジナルのリディムを必ず作ろう〉って。VITAL CONNECTIONのメンバーに〈俺たち、DRY&HEAVYっていうリズム・チーム名でやっていくから〉って宣言したら〈それ、格好よすぎるだろ!〉ってからかわれたけど(笑)、俺はそう名乗れたことが単純に嬉しかった」


──バーニング・スピアのアルバムに『Dry&Heavy』(77年)っていうタイトルのものがありますけど、そこから取ったんですか?

「いや、最初は単純にスライ&ロビーをもじって(笑)。コンビ名を考えていたとき、七尾君が〈DRY&HEAVYって言葉が一番レゲエを表してる気がするんだ〉って言い出して。俺も共感したし、これ以上の言葉はないんじゃないかって」







 しかしながら、秋本にとって念願のレゲエ・バンドだったVITAL CONNECTIONは、とある事情から突如分裂してしまう。秋本と力武、古畑以外のメンバーはAUDIO ACTIVEの活動を継続。七尾とのリズム・コンビ、DRY&HEAVYもここで一端解散することになった。



「やってられるかよ。VITAL CONNECTIONがエイドリアン・シャーウッドのプロデュースでON-Uからアルバムを出すって話が、まったくすべてAUDIO ACTIVEにすり替えられたんだよ? 俺は七尾君を信じてたし、当然VITAL CONNECTIONでやっていくもんだと思ってたから。そしたら、あっさりAUDIO ACTIVEでデビューしちゃって……。傷ついたね。もう二度と立ち上がれないかと思うくらい。弱冠23歳の、当時まだ純粋だった(笑)俺にとっては、それまでの人生最悪の事件だった。人間不信にもなったし、しばらくは落ち込んでたけど、ここで負けてられるかと思って力武さんと一緒にまたメンバー探しを始めたんだ。新宿のオレンジ・ストリートっていうレコード屋に行って、長井さん(MIGHTY MASA)に〈一緒にセッションしてください〉って頼み込んでね。それがINTERCEPTORっていうバンドになっていって、(LIKKLE)MAIとも出会った」

「そのころ、まだ音響の専門学校生だった内田(直之)君にも出会ってね、〈凄いドラマーを見つけたらすぐに呼ぶから〉って電話番号をもらってたんだ。何年待たせたかな。ただ、レゲエって本当に難しくてさ、いろんなドラマーとやったんだけど、どうしてもレゲエのグルーヴが出せないんだよね。レゲエ風のリズムを叩くドラマーはいるかもしれないけど、本物のレゲエ・ドラマーが叩くワンドロップは全然違う。それで、INTERCEPTORも何回かライヴをやっただけで頓挫してしまった。次にどうしようか考えてたときに、VITAL CONNECTIONのころから知ってる先輩の西内(徹/サックス)さんを介して〈七尾君がもう一度俺とやりたがってる〉って話を聞いて。それで、ものすごく悩んだんだけど、すべてを水に流して一大決心をして。INTERCEPTORのメンバーだったLIKKLE MAIや井上青たちをもう一度呼び寄せて、〈七尾君っていうドラマーと俺のコンビ、DRY&HEAVYを復活しよう思ってるんだけど、一緒に練習するか?〉って聞いてね」


──レゲエ・バンドではなく、リズム・コンビとしてのDRY&HEAVYという意識ははっきりあったわけですね。

「完全にそうだよ。オレにとっては最初からそうだから。ファーストのクレジットを見てごらんよ」


──その後、DRY&HEAVYとして活動していくなかで、国内はもとより、海外での評価も非常に高くなっていきますよね。

「ドラムとベースに関しては自信があったから、ヨーロッパで評価が高まっても〈当たり前だ〉と思ってたね」


──海外で刺激を受けることもあったんじゃないですか?

「それはあるよね。イギリスやドイツ、フランスなんかは日本よりも古くからレゲエが受け入れられてきた国だし、受け手も耳が肥えてるから」


──〈日本の状況を変えたい〉という意識もあった?

「うーんとね、オレは最初から日本のレゲエには全く興味がなかったし、聴いたこともなかったんだよ。ただただ、凄い音、凄いレゲエをやりたかっただけ。音で殺してやる、みたいなね」


──そして2001年7月28日、フジロックのステージで脱退宣言をします。実質的にはリズム隊としてのDRY&HEAVYの解散宣言だったわけですが。

「俺は自分を磨いた分だけ凄いドラマーとやりたかったし、シンプルにそれをやってきただけ。俺なりにDRY&HEAVY CONNECTIONのリーダーとしても責任を持ってやってきたわけだけど、レコード会社を含めてだんだんとそれぞれの思惑がおかしくなってきて……肝心の七尾くんもブレだした。で、気が付いたらトンでもないことになってたんだ。そもそも、なぜDRY&HEAVYはドラムとベースのコンビなのか? 俺には夢とヴィションがあったんだ。特別なグルーヴを持ったコンビだったし、自分たちをさらに磨きながら、いろんな才能を持ったヤツに花を咲かせてやれる。まずは日本。DRY&HEAVYとして最初の仕事は、筋として、一緒に練習してきた仲間たちのプロデュースだと決めていたしね。そしていずれはスライ&ロビーのように、最強と信じるレゲエのグルーヴを背負って世界中のミュージシャンたちとセッションを重ねて作品を残す」

「DRY&HEAVYにならそれができると思ってたから。レゲエをやっていて誇りに思えることの一つとして、いつだって、レゲエは古くて最も新しい音楽。常に革新的な、その時代時代の最前衛の音でなきゃいけないということ。それをやるためにDRY&HEAVYを作ったんだ。残念ながら、DRY&HEAVYはそうではなくなっていた。結局、人気が出てCDのセールスが上がったことと、DRY&HEAVYをバンドとして売っていきたいという、レコード会社とメンバーの思惑が一致したというだけの話。夢のない、レゲエらしからぬというかね……。ミイラ取りがミイラに、の代表例になってしまったよね。ただ、DRY&HEAVYに対してはすごく愛着もあったし……結成前、バイトの休憩時間に紙にグルーヴとヴァイブスの設計図を書いてさ、どのパートは誰がいいか、そんなこともやってたぐらいだから、俺にはどこかのネジがひとつ緩んだだけでもすぐに分かるわけ」


──なるほど。

「ボブ・マーリーはインターナショナル・デビューしたアルバム『Catch A Fire』で白人の植民地主義に対して、おそらく当時世界で初めてあそこまで直接的な言葉で歌って、闘って、世界中あらゆる立場の弱者や闘う意思ある者の代弁者、ヒーローになったわけだけど、俺もレゲエをやっていく以上、何をやるにしても常にボブ・マーリーと同じ地点には立ってなきゃっていう意識があったし、日本でも本当のメッセンジャーは絶対レゲエから出てこなきゃ嘘だと思ってた。だけど、そんなころTHA BLUE HERBとSHING02が関係者向けにやったライヴが西麻布のクラブであって。そこでSHING0の“応答セヨ”っていう曲を聴いたらいてもたってもいられなくなってね、ライヴが終わった後すぐにSHING0のところに突っ込んでいったんだ。SHINGOのマネージャーに止められながら〈SHING02!オレは応答するぞ!〉って叫びながら。危ないヤツだと思ったと思うよ(笑)」

「SHING0とはそれまで会ったこともなかったんだけど、そのとき〈一緒にやろう〉って言ったんだ。DRY&HEAVYへの愛着がまだあったから、最後の再生に賭けて、俺なりの劇薬を試してみようと思ってね。本気のメッセージを放つ奴を今のあの集団の中にぶち込んだらどうなるのか? それで七尾君に〈SHINGO2とやりたい。オレはレゲエのスタイルだけを追うのはもうイヤだ、これからは本物のメッセンジャーとやりたい。レベル・ミュージックとしてのレゲエをやりたい〉って話して。さすがに七尾君と力武さんは分かってくれたんだけど、他のメンバーにはすごい拒否反応があってね。それでも何とか録ったのが“My Nation”っていう曲。俺としてはショック療法みたいなものだったんだよ。それが(DRY&HEAVYを)抜ける1年ぐらい前。……他にもいろんなことが重なってね。もう一緒には闘えないと思った。最後にメンバーにはこう伝えた。〈今まで一緒に頑張ってきたけど、俺はもういい。何もいらない。ただDRY&HEAVYのファンは一緒に成長してきた純粋な、最上級のファンだから、汚いことだけはしてくれるな、それだけは約束して欲しい。俺はこれからもHEAVYとしてやっていく〉と」


──その後、GOTH(-TRAD)くんとのREBEL FAMILIAで活動を始めます。GOTHくんと会ったのはいつ頃だったんですか。

「そうそう、さっき言った劇薬のひとつとして、GOTHにDRY&HEAVYのダブ・ミックスをやらせるっていう案もあったわけ」


──へえ!

「昔、下北沢にシャカラっていうレコード屋があったんだけど、そこの店長がDRY&HEAVYをえらく応援してくれてね、メンバーもよくその店に集ってた。DJ BAKUやGOTHもそこで育ったようなところがあって。そこの主催で2000年ぐらいに〈DRY&HEAVY Vs DJ BAKU〉っていうセッションライヴをやったことがあって、そのときにGOTHがひとりでライヴをやったんだ。自分のトラックを生でダブ・ミックスするっていうスタイルでね。それまではGOTH-TRADって名前も知らなかったんだけど、ライヴを観たら凄くて、気がついたら最前列にいた。ただ、その頃のGOTHのトラックにはまだベースがなかったわけ。それで俺は〈ヤバいね、最高。現代のキング・タビーになれるよ。足りないのは俺のベースだけ(笑)〉とか言ってね。それで七尾君に〈今度GOTHとやってみよう〉って提案したんだけど、全然乗り気じゃなくて……さっきも言ったように、その頃のDRY&HEAVYは完全に保守的になってて、新しい挑戦が全くできない体質になってた。だったら、もうGOTHと2人でやろう、と」


──REBEL FAMILIAが初めてライヴをやったのが、01年のMETAMORPHOSE。

「そう。DRY&HEAVYの解散宣言をしてから1か月後。レゲエやダブをずっと追求してきたんだけど、それはある意味マッド・サイエンティスト的な部分にまで踏み込まなきゃ表現できないようなこともあって……ただ、見えてしまったらやるしかないわけ。だから、REBEL FAMILIAはDRY&HEAVY時代のファンを置いてきてしまったかもしれないけど、俺には聴こえてるものがあったから、やるしかなかったんだ」







 REBEL FAMILIAの活動を続ける一方、秋本はDRY&HEAVY以来となるルーツ・バンド、THE HEAVYMANNERSでも活躍。2008年の『THE HEAVYMANNERS』ではリンヴァル・トンプソンやイエローマンといったジャマイカン・グレイツに加え、念願でもあったスライ・ダンバーとの競演も実現。そうした充実した活動を続けてきた秋本が次に踏み出したステップ、それは七尾とのリズム・コンビ=DRY&HEAVYのまさかの再結成だった。2001年の脱退以降、決して良好とは言えない関係だった秋本と七尾のリユニオン、そのニュースに驚かされたファンは決して少なくなかっただろう。



──DRY&HEAVYとして再始動するまで、七尾さんとは一切会ってなかったんですか?

「俺は会えてもあの人は会えないでしょ。俺がいないのにDRY&HEAVYやっちゃってるんだから。まあ、結局……DRY&HEAVYの解散宣言をした日っていうのは俺にとって人生で最もつらい1日だったし、あの日のあと、世の中の仕組みも、人間というものの本質も、ある程度見えてしまったようなところがあって。世の中の扱いも脱退以降でまったく変わって、〈俺の存在は消されるな〉って思ったね。それを一回一回、ライヴでひっくり返していくしかなかったんだ。毎回、街頭で演説するような気持ちでライヴをやった。REBEL FAMILIAのマネージャーにも〈頑張ろう。これは勝てる戦じゃないかもしれないけど……〉って言われたしね(笑)。真っ暗闇の海のなか、小さなボートでGOTHと2人必死に漕いでるような感覚。俺のいない、インチキDRY&HEAVYが豪華客船に見えたよ。でも、格闘していくなかで日増しに新たなファンが支持してくれてね、少しずつ道が開けてきたんだ。本当にありがたかったね」

「何年かしてTHE HEAVYMANNERSも始めることができた。スライとも本当のセッションができて……ジャマイカに渡ってスライとやったことで、男としてカタをつけたというか。DRY&HEAVYの一件にはもうカタをつけた、もう未練はない、と。これまで以上にREBEL FAMILIAとTHE HEAVYMANNERSを一生懸命やっていこうと思ってたんだけど、一方ではずっと、俺と七尾君のグルーヴをもう一度聴きたいと言ってくれる人たちがいろんなところにいて。当然、俺は二度とやるつもりはなかったんだけど、KURANAKAなんかはわざわざカードを組んでくるわけ。3年ぐらい前かな、名村の造船場でZETTAI-MUがあったとき、オレもTHE HEAVYMANNERSで出たんだけど、AUDIO ACTIVEも出てて。七尾君とは会うだろうなとは思ってたんだけど、ステージに向かう途中で何となく気配を感じてね、そうしたらTHE HEAVYMANNERSのメンバーが〈七尾君が来たよ〉って。それで振り返ってみたら、泣いてる七尾くんがいた。……顔を見ちゃうと駄目なんだよ。その時は〈元気だった?〉とだけ会話を交わして」


──そこですぐに〈もう一回やろう〉っていう話にはならないですよね。

「ならないね。ずっと泣きながら〈ごめん、ごめん〉って言ってるわけ。やっぱり顔を見ちゃうとね……それ以上は何も話さなかった。そこで会っただけだったら何も起きなかったと思うんだけど、七尾君が沖縄に移っちゃって以降、いろんな人が俺と引き合わせようとしたんだよ。〈ライヴをやらなくてもいいから、一度七尾君とやってほしい〉って。断りきれなくなって、それで俺も沖縄まで行ってね。でも、ライヴをやるつもりは全然なかった。セッションを何回かやって……ただ、日を追うごとに周りのみんなから凄く感じるんだよ〈ライヴをやって欲しい〉って。そこまでしてくれたみんなに何か返したいと思ったし、完全シークレットなら1回だけやろう、と。それが一昨年」


──それが2009年だから、脱退以降8年ぶりだったわけですよね。いざやってみて、どんな感覚を持ったんですか?

「まあ、分かりきってるんだけど……やっぱり特別なんだなって。なんというか、七尾君ともう一回やらないといけないのかなって思った。七尾君と初めてやったときからずっとそうなんだけど、2人で演奏すると褒められたことしかないんだよ。世界中どこでやっても、誰からもダメ出しされたことがない。みんなおかしいんじゃないかと思ってさ(笑)。ただ、確かに、2人で演奏してると、すぐに次の景色が見えちゃうわけ。次にどうしたいか、普通は絶対に分からないはずなのに。同じ景色を見ながら走ってるような……本当に、俺と七尾君にしか聴こえない犬笛みたいなものがある。それだけはいくら努力しても得られるものではないと思う。人類60億分の1の確立、それぐらいの、そういうものを最初に感じたからこそDRY&HEAVYを始めたわけだし、昔から俺と七尾君の2人さえいれば何の心配もいらないと思ってた」


──なるほど……。

「ただね、沖縄から帰ってきてから七尾君とはずっと話してなかったんだけど、その1年後ぐらいかな、突然電話がかかってきて。〈どこにでも行くから、一度だけ会って話しを聞いてほしい〉って。それで、9年ぶりぐらいに2人だけで会ったわけ。そうしたらまた泣きながら〈ごめん〉って……〈もう一度だけ一緒にやりたい。自分を信じてほしい〉って言うんだよ。一時期は本当に、殺してやろうかと思うほど憎んでたわけだけど、実際に会ってしまうといろんな感情が沸いてきちゃって。〈じゃあ分かった、もう一度だけ信じるよ〉、そう言ったんだ。ただ、俺は許しても、DRY&HEAVYをやめてからずっと俺を支え続けてくれた仲間たちがいて。その仲間が納得する形じゃないとやれなかった。だから、七尾君には〈周りを奇麗にしてから来てくれ〉と頼んで。そのうえで〈もう一度やろう〉となったとき、勢いもあってさ、その場でKURANAKAに電話したんだよ。〈七尾君ともう一度やることになったから、クラナカ、証人になってくれ〉って。〈DRYです〉〈HEAVYです〉ってやったんだから(笑)。オレも熱くなっちゃって、帰りにひとりでBLACK SMOKERの事務所に寄って、ヤツらに〈こういうことになったから、宜しく頼む〉って言ってね」


──そのとき、なぜBLACK SMOKERの事務所に行ったんでしょう?

「たぶん心の底で、連中をいつも頼りにしてるんだろう。なぜか行ってしまったんだよ(笑)。BLACK SMOKERのみんなの顔を見たかった。俺のなかでは〈あいつらこそレゲエだ〉みたいな感覚があるから。乱獲のサバンナに、唯一残ったライオンの群れみたいな感じ(笑)。どこにも媚びずに続けてるわけでしょ。それに、ここ10年の俺を支えてくれた本当の仲間だったし」


──そもそも七尾さんとのコンビってVSっていう感覚じゃないんですね。

「違うね。大事にひとつのグルーヴを紡いでいくような感覚。俺にとってグルーヴは、メロディーよりも上位にあるものなんだ。心地良いヒューマンのグルーヴというものがあって、それは上手いとかヘタという次元を超えてる。ここ最近もドラムとベースとダブ・ミックスだけっていう、かなりミニマルなライヴをやってるけど、誰も帰らないんだよね。こっちが心配になるぐらいワン・ループでやってるのに(笑)。賛否両論はあるけど、若い、特にヒップホップやテクノのリスナーなんかが〈気持ちよくて最後まで聞いちゃいました〉とか言うんだよ。まあ、だから、俺たちのグルーヴには、過信はしないけど、確信はあるよ」


──そして今年(2011年)の5月、Killer-Bong(ヴォーカル&MPC)とCutsign(ギター)も参加した12インチ『DRY&HEAVY/ONE SHOT ONE KILL』がBLACK SMOKERから出たわけですが、リリースの話はBLACK SMOKER側からあったんですか?

「いや、それは俺から。俺にとってのレゲエは常にレベル・ミュージックであって、インディペンデントなものなんだ。誰にも媚を売らないもの。DRY&HEAVYをもう一度そういうところに戻したかったし、そのためにはBLACK SMOKERから出すのが一番しっくりくるんじゃないかと思って。毒は毒をもって制す、じゃないけど(笑)。12インチは誰もが聴ける状況にあるわけじゃないことも分かってるんだけど、そこはあえて〈本当に聴きたかったら谷底まで花を摘みにこい〉ぐらいの感覚で(笑)。それと、グルーヴとスピリットだけで勝負するものにしたかったし、それがあれば成り立つと思った。だから、カセットのMTRで録ったわけ。それは七尾君のアイデアだったんだけど」


──レコーディングは中野のライヴハウス/クラブ、HEAVYSICK ZEROで行ったんですよね。決めごとナシの完全セッションだったとか。

「そう、一切決めてない。ただ、DRY&HEAVYに関しては昔から9割ぐらいがその場で作ったものが作品になってるから。トラックが生まれた瞬間を記録したものを作品にしてるわけで、その点は今回も変わらないけどね。今回はそれぞれ1チャンネルずつしかないから、オーヴァーダブもパンチインもできない。本当にごまかしが効かないし、それぐらいのことでいいと思った」


──そもそもなぜ音源を出したかったんですか?

「七尾君はレコーディングが好きなんだよ。最初から〈アルバムを作りたい〉って言ってたし。それと俺は、ジャマイカでスライとセッションして以来、作品制作を日記みたいな感覚で捉えられるようになった。自由になれたんだ。スライとのセッションは一世一代の大勝負だったし、もし結果が出せなかったら(ベースを)辞めようと思ってたんだけど、1時間ない時間のなかでセッションをして、2曲満足のいく曲ができたとき、〈音楽とはこういうものなんだ〉と思った。勝負は時の運というか、鍛錬を怠らず、その時々の自分に胸を張れれば、明日やればまた違う曲ができる、その次の日にやればまた違う曲ができる、そういうものなんじゃないかって。七尾君ともその時その時を大事にやってるし、一回一回、これが最後になっても悔いはないと思ってやってるから」


──今後のDRY&HEAVYの活動については、どう考えていらっしゃいますか?

「もう一度だけ信じると言ったんだ。何か一度でも胡散臭いことがあったら、次は二度とないだろう。今回、俺たち2人のグルーヴが昔より、より強力になってることが分かった。離れていても、お互い努力してきた証だろう。人間としての生き方は全然違うけど、音を出す時は心一つになれる。もう、いろんなことがありすぎたからさ。今はただ本当に、七尾君の横に立って心静かにベースを弾きたいっていうだけだよ。あとは望まない。七尾君がドラムセットの前に座って、俺がベースアンプのスイッチを入れる。もう音しか信じてないから。ただ、俺たち2人のグルーヴを聴いて、1人でも幸せな気持ちになってくれる人がいるんだったら……これはもう、俺たちに託された使命みたいなものだと思ってる」


(インタヴュー・文/大石始)


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